評価センター資料閲覧室

第2回固定資産評価研究大会 基調講演


 分権型社会における固定資産税

東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授  神野 直彦


はじめに
ただいまご紹介にあずかりました東京大学の神野でございます。私の今日いただきました講題は「分権型社会における固定資産税のあり方について」というテーマでございますので、大変大きなテーマでございます。大きなテーマをやる場合に、大きなことを考える場合には、一体、ものごとの本質、一体何が本質なのかということを考えることが非常に重要かと存じます。そこで1つばかりやや個人的なことにかかわりますが、最初にお話をさせていただきたいというふうに考えております。
 1つは、これは私、今日、まとまったお話ができない言い訳になりますけれども、この3日間、財政学会に出ておりましたので、東京を留守にしておりました。それから、その前の2日間、これは和歌山の方にお招きをいただきまして、和歌山で講演をさせていただきました。そのとき、私は和歌山県というのは、日本の地方分権の運動の発祥地なんだというお話をさせていただきました。これは私のところに来たインドの大学の先生が私に「お前、地方分権推進委員会の委員をやっているようだけれども、日本の地方分権運動が和歌山県から始まったということを知っているか」というお話をされましたので「いや、存じません」と言いましたらば、日本の地方分権推進運動というのは、和歌山県から始まったのだと。これは、中央集権的な明治政府が神社を統合するという政策を始めた。これは神社の神官など、公務員にしますので、そういう関係で、1神社ということで、神社を統合することを始めた。それに対して、そうなりますと、鎮守の森でないところができちゃいますので、つまり、一つにまとめられちゃいますから、鎮守の森が減ります。そうすると、その神社の森でなくなった森を伐採し始めて、自然が破壊される。それが和歌山県で起きたのに対して、和歌山県から、それに反対する分権運動が起きてきた。これが日本の地方分権の始まりだというお話をインドの先生がされたわけであります。それで、私はちょっとそんなことを知らなかったのですが、あなたはインド人なのに、どうしてそんなことを知っているんだということをお聞きしましたところ、私は日本の大逆事件、明治時代に起きました大逆事件を研究している。大逆事件で逮捕された人々の多くが和歌山県人であったという事実に着目をして、どうしてそうなったんだろうというふうに調べていったら、そこに行き当たったというお話を和歌山県でいたしましたところ、和歌山県の山下副知事が、あなた、そんなことを知らなかったのですかということで、どっさり帰りに資料をいただきまして、その分権運動を推進したのは、南方熊楠という有名な御存じのエコロジストであって、その資料をどっさりいただいてまいりました。今日、その一部をちょっと持ってまいりましたけれども、南方熊楠は神社合併反対意見というのを出しておりまして、この神社の合併というのは、人民の融和を妨げ、地子の運用を阻害する。神社の合併というのは、地方を衰微せしめる。それから、それは神社の合併というのは、庶民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を乱す。それから、愛郷心を損ずる、つまり故郷を愛する心を失わせしめる。土地の治安と利益に大きな損害を与えてしまうと、こういうふうに反対をして、エコロジーと共に集権的な地方やあり方についての反対運動の意見を出しているということがわかったわけであります。こういう具合、地方分権というのは、私たちの人間の生活を守っていく。生活の環境を守っていく。そういう運動から始まるのだということを、まず最初に考えておきたいとうのが第1点でございます。
 それから、第2点、もう一つのお話は、私は大学時代に、日本文学を成瀬先生という先生に習いまして、ずっと大学時代ですので、もう二十何年前でございますけれども、そのときに、成瀬先生というのは、先ほど、こちらにお座りになっていた成瀬税務局長の一族でございますけれども、成瀬先生は犬山城の城主でありまして、唯一私的にお城を持っている方でして、先生は私が教えを受けていたときに、犬山城の改築が成し遂げられて、大変喜んでいらっしゃったことを記憶しておりますが、実は、これは地租に関係いたします。日本の場合に、地租というのは納税義務を、いわゆる、お城も納税義務を課したのです。ところがヨーロッパでは、封建領主が持っていたお城は土地課税の対象から外しました。これは封建身分の有償開放、つまり、封建身分をお金で払って開放したのと同じことだというふうに言われておりますが、日本は、むしろ徹底して、無償開放したんだというふうに言われるぐらいに、封建領主である城主のお城も、これは地租の納税義務を課したわけです。それはなぜかと言いますと、この日本の国土、これはすべて天皇陛下のものあって、陛下から単に土地というのはお預かりしているだけにしか過ぎないのだ。したがって地租というのは、皇族といえども、納税義務がありました。そういうふうに厳しい税金だったわけです。もちろん、現在では、陛下はシンボル、象徴になっておりますが、陛下を公共性のシンボルだと、こういうふうに例えれば、私たちの国土、土地というのは大気とか、河川とか、海と同じように、自然なんです。そして、その自然というのは、ヨーロッパで言えば、神が等しく人間に与えたもうた恵みであって、それを私的に所有するということは、単に神からお預かりしているものだ。つまり、私たち人間すべての、私たち共同社会すべてのものなんだけれども、それが諸個人が単に、預かっているものなのだ。そういう気持ちで、そういうものとして税金をかけていくんだということが必要なのではないかというのが、今日、お話したい第2点であります。

1.地方分権のあり方
 結論は、この2点でありますが、まず、第1点の地方分権の方から言いますと、地方分権というのは、今、お話をいたしましたように、明治時代から起きていたわけです。しかし、世界的に見ても、地方分権の動きが始まるのは、この世紀末、1980年代からです。ヨーロッパでも、そして、日本でも、1980年代ぐらいから地方分権の動きが始まってまいります。地方分権というのは、どうして始まるのかと言いますと、これは私の考えでは、社会的なセイフティーネット、社会的な安全のネットの張り替えだというふうに考えるべきだというふうに思っております。
 私たちの社会というのは、市場原理、弱肉強食、優勝劣敗の市場原理で成り立っているわけです。この市場原理で破れたり、負けた人々が落っこって、綱渡りや、それから、サーカスで行われている空中ブランコの下に敷く安全ネットのように、市場経済で行われている弱肉強食、優勝劣敗の競争に破れても、人々の生活が安心できるように、セイフティーネットを張って上げる。人々の生活を守り、人々の生活を保護するインフラストラクチャーを張って上げる。これが私たちの政府が行うべき任務だろうというふうに考えているわけであります。もちろん、こういうセイフティーネットというのは、政府だけが張るわけではなくて、市場原理でもって、市場原理がうまく機能するためには、このセイフティーネットがなければダメなんですけれども、このセイフティーネットというのは市場だけではなくて、私たちは、家族とか、地域社会とか、コミュニティーですね。こういったものをつくって安全網を張っていたわけです。市場経済の吹きすさぶ厳しい競争原理から家族というのは守るものであったし、コミュニティーでも同じことですね。ところが、こういう家族や地域社会だけでは守り切れない。そこで弱い家族や、それから弱い生活者に対して、これまでは国が市場経済の外側でお金を配って、つまり、年をとれば年金、子供が生まれれば児童手当、失業すれば失業保険、それから、一定の生活水準以下になれば生活保護というような形で、お金を配って生活を守っていた。ところが、1980年代ごろから、これがうまく行かなくなってきてしまった。それはなぜかと言いますと、経済がグローバル化し、ボーダレス化して国民国家の枠組みを経済活動が超えはじめて市場経済が非常に大きくなり始めて、国民国家の枠、ボーダーを崩し始めちゃったのです。そこで、私たちは2つの形で、今まで国民国家が張っていたセイフティーネットを、2つの形で守らなければならなくなってきたというふうに、私は考えています。
 今、年金とか、それから、医療とか、こういう現金給付、つまり、社会保険による私たちの生活を守るということがうまくいくかどうかということが、信用が動揺しています。この基本的な原因は、経済がボーダレス化し、グローバル化し、そして、それはなぜ経済がグローバル化し、ボーダレス化したかと言うと、金融の時代、重厚長大から情報化、金融の時代になって、金融が世界各国を走り巡って、その信用を動揺し始めているんですね。人々はもう信用しなくなってきた。信用不安に陥っている。これが現在の状態であります。そこで、今まで国が張っていたセイフティーネットを、上と下で張り替えなければならない。1つは市場経済の不安定性、動揺性、特に為替のリスクや、それから、今までのような金融不安から逃れられるために、お互いに国民国家が共同して為替リスクをシェアしあうようなシステム、言い換えれば、国民国家を超える形でもって、為替変動のリスクをシェアするシステムです。ヨーロッパで言えばユーロというような形で、国民国家間で、お互いにリスクをシェアしあおうということで、一つの通貨にまとめていくことによって、リスクをシェアしあうという、国民国家の上のレベルで、国民国家を超えるレベルでセイフティーネットを張るというやり方であります。これは、日本の社会、まだうまく行っていません。アジア、中国、韓国、タイ、インドネシア、広がっている通貨不安、通貨危機、こういったリスクをアジア全体としてシェアしあっていくようなシステムというのをつくり上げていかなければいけないわけですが、これができていないのが現状です。ところが、もう1つやらなければいけないことは、私たち経済が金融化して、ボーダレス化し、グローバル化しても、私たちの生活、これはボーダレス化し、グローバル化しないのです。地域社会に根づいたままなんです。
 そこで、地域社会のレベルで、もう1回人々の生活を守るセイフティーネット、安全網を張りなおすという作業が必要になってくる。ヨーロッパでいきますと、一方で1984年にユーロの統合、つまりEU統合を決めると同時に、他方で1985年に、ヨーロッパ地方自治憲章をつくって、地方分権を進める。そして、地方政府に地方自治体、地方公共団体に、人々の生活を守るようなサービス、そして、人々の環境を守るようなサービス、人々の生活の環境、器や、それから、人々の生活をお互いに助け合っていくような、そういうサービスを供給する、そういうシステムをつくっていこうということを考え始める。これが地方分権なんです。日本も1980年代から、人々の生活を地方政府に守らせようという動きが起きてまいります。
 1989年には、ゴールドプランができて、地方自治体が実物サービスで、サービスでもって守ってくれる。それから、エンゼルプランができて、子供たちの育児、こういったものを守ってくれる。つまり、家族や地域社会でやっていたこと、自発的な地域社会でやっていたことを、地方公共団体が代わってやることによって、人々の生活を守っていこうという動きが出てまいります。これが地方分権の動きなんです。
 具体的に言えば、ヨーロッパで言うと、これまで教会が主としてやっていたような教育、それから福祉、医療、日本でも昔はこういったものは全部宗教団体がやっていたわけです。寺子屋、悲田院のようなものとか、そういう宗教団体が、地域社会がお互いに協力しあいながら、宗教団体を中心としてやっていたようなものを、お互いにやっていく。それから、環境を守っていく行為、人々の生活のアメニティー、豊かさを保障していくようなサービス、こういったものを地方公共団体が供給しながら、人々の生活を守っていく。つまり、セイフティーネットを国民国家の上と下とで張り替えていく。これが地方分権の動きだというふうに考えられるわけであります。先ほど、和歌山県のお話をいたしましたように、私たちの生活、自分たちの地域に根づいている私たちの生活をお互いに助け合い、環境を守っていく。そういうシステムをつくり上げていく。そういうネットワークをつくり上げていく。それが地方分権だというふうに考えていいだろうと思います。
 そういうことを地方公共団体が自主的な判断でつくり上げていくには、財布の自由、地方自治体が自分の財政を自分で決めることができる。そして、地域社会のニーズを図って、地域に必要な公共サービス、今、言ったように、人々の生活を支え、支援し、そして、人々の生活環境を守っていく。そういう公共サービスを自分たちの判断でできるためには、自分たちの財布がそのための財源が自分たちの自由に調達できて、自由に使用できると。こういうシステムを基本につくり上げていかなくてはならないだろうというふうに思います。

2.分権と税源としての固定資産税のあり方
 そのためには、地方の税源、地方に配分される地方税を充実して強化して、そして、地方の地域住民が自分たちの意思決定でもって、それを決定できる。負担を決定できる。そういう仕組みをつくっていくということが、最も重要なことだろうというふうに考えられるわけであります。こういう観点から、私たちは、もう一度固定資産税というものを見直して、位置づけていくということが、つまり、新しい光の中で位置づけていくということが、重要なのではないかというふうに考えています。
 さて、この固定資産税でありますけれども、固定資産税というのは、土地に対する税金であります。土地というのは、今も申しましたように、自然なんです。海とか、大気とか、それから、河川とかと同じように、自然なんです。その自然源を、個人に分配して、個人に所有権、私的な所有権を設定するということが、なぜ許されるのかということを、まず考えてみる必要があるだろうと思います。
 私たちは本来、大気とか、河川とか、海と同じように、土地も地域社会が共同で管理する。そして、共通の財産なんだ。私たち、地域住民の共通の財産なんだということで、共通に管理するということが基本的な考え方としてなければならないのではないかと思います。しかし、市場社会を動かすためには、本来は共同体、この地域社会がみんながみんなの考えのもとで、みんなの考えで、地域社会全員の福祉のために利用計画を立てて利用しなければならないのだけれども、市場経済を動かしていくためには、所有権を設定しないと、うまくいかないので、地域社会が所有権を設定するわけです。神が与えたもうた土地なんだけれども、労働の生産物じゃないのですから、ロックが言っているように、労働の生産物だったら、これは所有権主張できますね。これは私が労働を投下して、私がつくったものなんだから、これは私のものだと言えるわけですけれども、土地というのは自然なんです。それに所有権を設定するわけですから、共同体がみんなで本当は使わなければいけない土地に対して、所有権を設定するわけですから、そして、その地域社会全体が地域社会の地域住民の総意に基づいて、所有権を設定して上げるわけですから、そして、その所有権を設定して、その所有者に利用の自由を許すわけですから、その対価として、その見返りとして、地域社会は、当然、課税をする権利がある。固定資産税というのはそういう税金だと思うのです。所有権を設定する見返りとして、その許可をするんです。見返りとして、税金を設定する。こういう税金だというふうに理解をしておく必要がある。それが土地課税であり、それが地方税として設定される固定資産税だ。こう理解しておく必要があるのではないかというふうに思います。
 ところが労働の生産物、労働によって私たちがつくり上げたものでないものに、自然に神が与えたもうた自然に所有権を設定いたしまして、市場で取引をする。市場で取引をするようにいたしますから、矛盾が出てくるわけです。まず、第1に、土地という自然に所有権を設定してしまいますから、労働の生産物ですから、生産できません。価格が上がると、労働による生産物であったら、人々はみんな一生懸命労働をして、新たに物をくつります。しかし、土地の場合には、生産することができないのです。価格が上がったと言っても、土地の供給を増やして、そして、新たに生産をして、土地の価格を押さえるということはできません。しかも、自然というのは、私たちが言うように、土地は海や、大気や、それから河川と同じ自然なんです。その土地には、私たちの生活がへばりついているのです。労働の生産物のように、勝手に売り買いするようなものではないのです。私たちの人間が生きていくための生活そのものが土地にへばりついているわけですから、当然、売ると言っても限界があるわけです。相続をしたり、止むを得ない場合以外は本来、私たちの生活にへばりついているもの、土地を売るということはないというふうに考えるわけです。むしろ、土地を売買するというのは例外的な行為であって、本来、行われるということが不自然だというふうに言った方がいいだろうと思います。
 もう1つ、実は問題になってくる、今、第1点のように、販売するために生産ができないというのは第1点ですが、もう1つ第2点で問題が出てくるのは、普通の生産物と違いますから、自然ですから、消耗いたしません。減価することがないです。土地というのは、減価することがないということは、そういう減価するものがないものが市場で売買されちゃいますと、全く安全な資産、他の物と違って、全く価値の失わない安全な資産になります。そうして、こういう安全な資産が存在するということが信用制度が動揺が起きると、必ず、投機の対象になるんです。投機の対象になってしまう。本来、繰り返すようですが、人間の生活がへばりついているものが、市場での売買の対象になるだけではなくて、投機の対象になってしまう。投機の対象になると大変なことになるわけです。とても生産ができないものですから、土地の価格が値上がる。値上がると、投機の対象になりますと、一番高いのをつけたやつ、最も高いのをつける方向で動きますから、ますます高い方向に振れていきますし、それから、現在のように、土地の値段が低くなってまいりますと、投機の対象になると、低い値をつけた人間が勝ちますから、低い値でもっとどんどん落ちていく。こういうふうに、投機の対象になって、価格が上下して、かつ豊かなものの手に集中してしまう。こういう危険性があるわけです。私たちの生活がへばりついている自然が売買の対象になる。そのことによって、まきおこる悲劇が起きてしまう。そのためにどうしても、私たちの生活が自然にへばりついていることに対する保護や、保障を必ず政府がやらざるを得なくなってくる。というのが、これが土地に対する土地であって、そこに税金をかけていくのだということを、私たちは考えておく必要があるだろうと思います。
 そういう土地というのは、普通の商品と違うんだということを、まず、お話をした上で、では、私たちが、今、考えようとしている固定資産税というのは、どういう税金なのだろうかというふうに考えてみたいと思います。

3.固定資産税の沿革
ご案内のように、この固定資産税というのは、シャウプ勧告でできた税金でありますけれども、シャウプ勧告ができる前は、この固定資産税というのは、戦前は、先ほどお話いたしました地租、それに地方税、特に都道府県税の基幹的な税目であった家屋税、この2つが合わさって、現在の固定資産税ができているわけです。この地租と家屋税というのは、先ほど言いましたけれども、明治政府がつくったわけですけれども、ご案内のとおり、地租をつくることによって土地の所有権、江戸時代は売買の永代禁止になっているわけですから、売買の対象ではなかったわけです。自然というのは売買をしてはいけないものだ。しかし、地租を設定することによって、税金をかけることによって始めて土地所有を認めた。土地が私的に所有され、土地が売買されるようになる。これが地租改正と言われるものであります。
 この地租改正によって、日本は地租を導入しますが、その地租はどこから導入してきたかと言いますと、これはフランスの制度を導入いたしました。フランス革命が起きて、ナポレオンが地租のための大事業を行って、フランス全土の土地を評価して、かなりの年月をかけて評価して、そして地租をつくったわけです。この地租と同時に、地租、家屋税、これは当時は、窓税でしたけれども、家屋税、それから、営業税、こういう収益税と言われる税金をナポレオンはつくりました。つまり、フランス革命の落とし子として、地租、家屋税、そして、営業税と、こういう収益税ができあがるわけです。この収益税が、フランスから南ドイツに伝わりまして、そして、プロシアを経由して、日本は明治政府が地租を入れてくるわけであります。これは収益税、フランスは収益税をつくりましたので、これは収益税というのは物税です。なぜフランスは収益税という物税をつくったのかと言いますと、ご案内のとおり、フランス革命の原因というのは免税特権、第一身分、第二身分、第三身分というのがあって、第一身分と第二身分には、免税特権を持っていた。なぜ、免税特権を持つのかというと、それは税金を人税、人をまず納税者を決めて、そして、その納税者にかかるような税金、これを人税と申しますけれども、そういう人税で税金をかけていた。そういう免税特権を発生しないようにするためには、物税をかけるべきだということで、物に対する税金をかけたわけです。家屋、土地、それから事業という物に対してかける。その土地を持っていれば、第一身分であろうと、第二身分であろうと、第三身分であろうと、これは土地にかかる税金であれば、所有者はだれであろうと、税金はかかってくるんだから、そういう物に着目した方の税金の方が公平だということで物税ができあがってくるわけです。したがって、収益税というのは、実は、土地の生み出す収益、土地の生み出すフローです。ストックでなくて、フローにかける税金なんですが、そのフローをストックに写像すると言いますか、写し変えて、税金をかけるというのが収益税の本質でございます。つまりあたかもストックにかかるような税金だけれども、実は、そのストックが生み出すフローから税金が支払われるということを前提にしている税金、これが収益税ということになります。
 明治政府は、この地租、家屋税を導入いたしますけれども、このときに、どういうふうに税金を設定したかと申しますと、これは明治財政史を読むと、まず、田地1反歩の収穫を石高として、これを石高を金銭に換算して、そして、種子・肥料、それから、損費を控除した残額の、これを純利益として、これを一定の利益、自作であれば6分でもって還元をして、地価を求むるというふうに書いてありますから、土地が収穫の石高をこれを金銭に換算をいたしまして、そして、コストである肥料とか種子とか、そういったものを引いて、純利益を出して、これに一定の利子率でもって還元をして、地価を定めるということになっておりますので、収益還元でもって地価を定めて、これを課税標準として設定したということです。宅地の方も同じことです。収益として、収益としての地代を資本還元して、そして地価を求める。こういうやり方で地租を決めたわけであります。ところが、こういう土地にかかる税金というのは、フランスでも、初め、今言いましたように、フランスの特殊な事情から、物税として、国の税金として設定いたしましたし、日本も地租を国の税金として設定したわけですけれども、土地にかかる税金というのは、本来、地方税に適しているのです。他の国、例えば、イギリスでも、これはレイトというのは、もともと地方税から出発をいたしますので、本来、地方税という性格を有しておりましたので、徐々に地方税に事実上なってまいります。
 具体的に言うと、地方が国の地租に付加税、国の税金の国の本税と言いますけれども、国の税金の税率の1点何%というような形でもって、倍率をかけて、税金をかけるようになってくるわけであります。そして、第一次世界大戦後になりますと、地租の付加税の方が本税を上回る。国税としての地租よりも、地方税としての地租付加税の方が税額が多くなってしまうという事態が生じてくるわけです。逆に地租の母国フランスでも、収益税というのは、第2次世界大戦後、付加税がかかってきますけれども、もう本税は廃止しちゃいます。つまり、国の税金としては、なくなっちゃうわけです。本税なき付加税というふうに言われますけれども、本税がなくて、付加税だけが残る。地方がかけている付加税だけが残ると。こういうやり方で、各国、母国のフランスでもそうですし、日本でも事実上、地方税化してくるという動きが出てくるわけであります。しかも、大正デモクラシー、大正年間における民主主義運動のもとで、地租、それから、もう一つの収益税でありました営業税、この両税、2つの税金を地方税に委譲しろ、事実上、地方税になってきているわけですから、地方税に委譲しろという運動が起きてまいりまして、それが1940年の改革でもって、全くの地方税となるという歴史のもとで、地方税化していく、地租も地方税化していきますし、それから、家屋税もこれももともと家屋税は都道府県税でしたけれども、1940年で、地租と家屋税が還付税化いたします。そして、シャウプ勧告で2つがまとめられて、現在の固定資産税になるということになるわけであります。

4.分権型社会に対応した固定資産税
 さて、そこで、こうした歴史を持っている固定資産税を、先ほど言いましたような形で、地方分権型社会になっていったときに、どうやって組み換えていくのかということになるわけであります。このときに重要な点は、私たちは、土地というのは、繰り返すようですけれども、特殊なものであって、この特殊な商品、神が与えたもうた自然を、本来、共同体や共同社会が地域社会が共同で持っていなければならない土地を私的に分割してしまったということに伴う多くの困難を抱え込んだ、そういうものであるという認識から出発する必要があるだろうと思います。
 まず最初に注意しておきたい点は、応益課税だと、こういうふうに言いますが、この固定資産税が応益課税だというときの、応益課税という意味ですけれども、これは私たち地域社会全体の利益、これが応益の利益という意味だということを、まず理解しておく必要があると思います。何か土地にかかる税金だから、その土地に固有のサービス、例えば、下水道を引いてくれるとか、あるいは、土地を高めるサービス、これだけを利益だと考える場合がありますけれども、そうではありません。地方公共団体が行う公共サービスの利益一般を利益だというふうに考えなければならない。これが利益の意味だということを最初にお断りしておきたいと思います。ご案内のとおりに、イギリスの地方税というのは、レイトと言われている固定資産税みたいなものだけでできておりました。サッチャーが廃止するまではそうだったわけです。ところが、このレイトというのは、プアレイト、救貧税と昔言われていたように、救貧活動、貧しい人々を助けるために、その税金を使ったわけです。だから、固定資産税みたいな税金をかけますけれども、使い道は救貧活動に行っていた。では、救貧活動の利益は、だれが受けているのかと言うと、その個別に救貧活動に利益を受けている救貧者、貧者が利益を受けているんだと。そういうふうに考えているわけではないのです。私たち共同社会にそういう貧しい人々が出てきたときに、その貧しい人々を助けることによって、その地域社会全体の秩序、あるいは、統合が維持される。共同社会全体の利益にそれがなる。だから、共同社会全体が所有権を設定してあげている人々がそのものを負担すべきだと、こういうふうに言っているわけです。もしも、共同社会全体の秩序が維持されずに、共同社会が不安定な状態で、共同社会として社会全体が成り立っていなければ、所有権も成り立たない。あなたの土地所有というのはどうして保護されているんですか。その保護は、この地域社会の秩序が保たれているから、その秩序が保たれているということは、救貧活動が行われ、貧しい人々も地域の共同社会の1つのメンバーとして救われていく。だから、私も地域社会のメンバーなんだということで、その社会が、全体が統合されているからだということで利益説が成り立つんだ。利益というのは、個別の、つまり、市場で行われるような、市場の物を買った人が受けるような、そういう個別の利益ではなくて、共同社会全体が受ける利益だということだということをまず第1にお断りをしておきたいと思います。

5.土地の価格のあり方
 それから、第2点目の問題ですけれども、評価する土地の価格、土地の価格に税金をかける、そのときに、では、土地の価格というのは一体どういう価格なのかということなんです。これは私の議論ではなくて、米原先生の議論でありますが、今、申し上げましたように、土地というのは生産もできなければ、つまり、全くの自然ですから、自然を売買するわけです。しかも人々の生活がへばりついているものを売買するわけですから、これは特殊な商品であるということを認識して、価格を決める必要がある。米原先生の議論によりますと、一物四価と昔言われましたけれども、あの一物四価こそ正しいのだということになるわけです。実際に市場で売買されている取引というのは、多分に投機的な要素が入ってくるわけです。先ほども言いましたけれども、土地というのは自然ですから、減価しないわけで、安全な資産ですから、いつも投機の対象になってしまう。投機によって振られてしまう。しかし、他方でもって、その土地には、人々の生活がへばりついていますから、出てくる玉、株式でもそうですね。株式会社が全部持合いをやっていて、証券市場で取引される売買の玉が、売買される数が少なけければ、乱高下するように土地の価格というのは物すごい乱高下してしまう。このことを、まず考えておく。売買されるものというのは、ごく限定されていて、取引の対象になる。物というのは限定されている。しかも投機の対象になる。そうすると、実際に投機の対象として、投機されて決まった価格が、これが市場価格だといたしますと、その市場価格で固定資産税の評価価格を決めるべきかどうか。これはナンセンスであるということは、これは直ぐに了解できるはずです。

6.土地利用形態と固定資産税の関わり
 それから、もう1つは、公示価格というのがございますが、これは土地の取引を公正に行われるために決めるというふうに言われておりますし、特に、公共用地を買収するときの価格の基準にもなるものです。こういう場合に、価格はどういうふうに設定されるのかと言いますと、これは土地というのは、先ほど言いましたように、人々の生活がへばりついていますから、例えば、米原先生の言葉を使いますと、ある町に土地があって、この土地が10区画あったとする。仮に同じ面積で10区画あったとしますと、これは土地の価格というのは、先ほど言いましたように、幾ら出ていくのかというのは、全部が出ていくなんてことはまずあり得ないのですけれども、市場の価格というのは、供給によって振られますから、幾らその土地が全部売買されるのか、全部供給されるのか、ある1区画だけ売られるのかによって価格の値段が違うということはおわかりになりますね。米原先生の例でいきますと、魚の値段がしけのときの決まる値段と、大漁のときに決まる値段と全然価格が違うのと同じことですね。銀座の土地が全部売られた場合、1区画だけ売られた場合と、全然違うというのは明らかであります。
 公共用地の買収価格の公示価格というのは、これは全体が売られないで、プラスアルファーされたときの価格だというふうに、米原先生が言われておりますので、これはごく高い水準で決まる。これを想定する。これは当然である。それから、相続税の路線価というのは、これは相続をするために支払うのですが、あの相続税というのは、ある程度、実質的な財産税、財産を一部売り払って払うということを前提にしているから、路線価の考え方で言うと、一部必ず供給されると、相続のときに、土地を売らざるを得なくなって、やむにやまれずに売ったために、買いたたかれたというお話がよくあるように、土地の供給が行われるということを前提にして価格が決まる。今、言いました銀座の土地10区画である場合、相続を行った人々が相続を受けた土地を売る。1区画売ると。そのときの値段で決まりますから、これは公示価格より当然安目に決まる。では、固定資産税というのは、米原先生の議論でいけば、どういうふうな価格の決まり方をするかというと、これは経常的にみんなが持っているんです。しかも、次に売買できるわけではないわけですから、米原先生の議論でいけば、その価格というのは、10区画全部、全部の土地を売っぱらったときに、つまり、供給が物すごく大量に出たときに、幾らの値段で決まるのかということで、価格は決まるべきだというふうにおっしゃっていますので、かなり低い水準で決まらざるを得ない。これが一物四価、投機的な価格で決まったもの、公示価格、路線価、そして、固定資産税の実態、価格の決まり方であって、これこそ、まさに正しいんだというのが、米原先生の議論でありまして、これは土地という自然を私たちが神をも恐れず、売買の対象にしていくということから決まってくる、そういう価格の決まり方です。その実態をうまくつかまえてやらなければならない。そこで米原先生は、収益還元価格というのを重視した価格で決めるべきだというふうな主張を展開されるわけでありますが、ここの評価センターが7割評価を決めたときにも、収益還元価格で評価すべきだ。その割合を重視して、7割という線を出したわけですけれども、そういうふうに、本来、その投機的な要素を排除した上で、なおかつ、むしろ収益還元に近い価格で決めるというのが、固定資産税の本来の価格の水準ではないか。これは土地の価格、土地という商品、特殊な商品である。自然なんだ。私たちが、共同社会が共同で管理しているものだということを念頭に置いた価格設定をするということをしなければならないのではないかということであります。
 それから、第2点ですが、そうなってくると、これは私たちの地域社会共有の財産というのが本来のものなんだというふうに考えれば、当然、私たちの地域社会の土地がどのように利用されていくのか、その地域社会にとって最もいいのかということを、地域住民が決定していく。決めていくという作業と連動しながら、当然行われなければならないはずであります。ここは緑地にしよう。あるいは、ここというのは住宅地がいいのではないか。ここは工業用地がいいのではないか。ここは環境を守るために残しておこうというような、そういう土地の利用計画とセットで評価、土地の租税の負担というのは決められなければおかしいはずです。
 ご案内のとおり、ヨーロッパでは、必ずセットです。セットだということは、いつも上のものと、土地の価格というのはセットで、つまり、その土地がどういう利用のされ方をしているのか。上に立っている住宅の建物とセットで評価されてしまう。レイトもそうです。それぞれの土地の利用形態とセットでされてしまう。かつその利用形態というものと、価格というのはリンクするわけです。ここはもうこの土地というのは、もう宅地しか使えないんだというふうにセットで決めておけば、それは売りに出したところでもって、大企業が何かオフィスビルをつくるというわけにいかないわけですから、当然安くなる。そういう土地の利用形態とセットで決め、評価されなければならない。私たちは、実は、日本の場合には、そういう既成が極めてルーズで弱いのです。規制緩和をすれば価格が下がると言いますけれども、それは逆でありまして、私たちの日本で土地が高いといつも言われ続けてきたのはなぜかと言うと、これは規制がないからです。規制が全くルーズで規制がないから土地の価格というのは値上がりをしていたということが言えるだろうと思います。
 私たちは、これから地域のまちづくり、これとセットでもって、固定資産税というのは考えていく必要があるだろうと思います。これは皆さん、ご案内のとおり、皆様方の故郷、まちに戻っていただけばわかります。日本の国が崩れていくように、それぞれの地域社会のまち、商店街、そういったものがもぬけの殻になるように、崩れつつあるわけです。これから高齢化社会に向かって、恐るべきことであります。その1つの大きな原因は、全く土地の都市計画なり、土地の利用計画がなかったということに原因があるわけです。アメリカが規制緩和をしろというふうに日本は言われると直ぐやりますけれども、アメリカはご案内のとおり、日本と違って、厳格な土地利用計画がきちっとできあがっていて制限されています。その上でショッピングセンター、ああいったものをつくりますから、ショッピングセンターをつくるということに関して、大規模店舗をつくるということに関しては規制緩和されていても、その土地の利用形態というのはきちっと決められてますから、そう無闇に街なみが破壊されるようなショッピングセンターができるということはないのです。そういったことをしないで、やった例として、イギリスの例がありますが、イギリスはそれにショッピングセンターをつくって失敗いたしましたから、今、戻そうと。もう一回、街なみを戻すような形で戻そうということをしております。ところが、ヨーロッパの大陸諸国では、もともとそういうことをやるつもりはない。そんなことをしたら、まちがショッピングセンターみたいのをつくったら、大規模ショッピングセンターみたいなのをつくったら、もうまちが破壊されてしまうというのがわかってますからやらない。日本は、全くその点をルーズに何もしないまま現在大規模店舗できあがってますから、まちは当然、破壊されていく。そうすると、高齢化社会に向かって、本当にやっていけない社会になるわけです。ご案内のとおり、大規模ショッピングセンターというのは、自動車と冷蔵庫を一挙に沢山のものを買い込んでいって、1週間分、あるいは、2週間分、1か月分の食糧を冷蔵庫で買いだめしておいて、生活をするという、アメリカのライフスタイルが軸になりますけれども、もう高齢者はできません。まちの中に、自分たちの地域に住んでいる中に、いつも買うお店があって、届けてくれたり、配達をしてくれたり、病気のときは配達をしてくれる。そういったサービスに囲まれていて、ようやく高齢者というのは生活できますから、とてもじゃありませんけれども、自動車を運転して買いにいけということを言われても、これから高齢者がほとんど増えていくわけですから、とてもそれは成り立たない社会になってしまう。もう目に見えているわけです。
 明らかに、言えることは、きちんとした私たちの共同社会における公共の空間利用、これとセットでもって、土地の評価、土地の負担を決めていく必要があるということであります。これはニューヨークでもそうですけれども、企業、特に法人の持っている土地、そういったものを高く評価するというのは、これは常識でございますので、私たちの生活が密着している宅地、住宅地と、それから、当然、利用形態の違う企業、法人の企業が所有し使っている土地というのは違うわけです。日本の固定資産税を見ますと、この点が問題がありまして、大規模な法人の所有しているような土地というのは著しく安くなっているというふうに言っていいだろうと思います。
 ところが日本の場合には、一方で、地価税がかかっているんです。私の考えでは、こういう土地の税金、これは繰り返すようですけれども、土地というのは地域社会がまるで入会地のように、共同で所有して、共同で管理するんだというようなことを、まず原則的に考えるべきものですから、土地の税金というのは、国税でかけるべきではないと思っておりますので、地価税というのは、ご案内のとおり、大土地所有者、法人が持っている土地にかかっておりますので、この地価税は、今の固定資産税をそのままにしておいて、法人所有とか、大土地所有者の部分だけ所有形態に応じて土地の値上げをするよと言うと、とても通らないと思いますので、地価税を固定資産税に吸収する、そのことによって、土地の区画ごと、利用形態ごとの差別課税を行うということを、固定資産税として目指すべきではないか。言い換えれば、私たちが共同社会でもって、その共同で管理しなければならない土地というものを、どういう利用形態にやっていくのか。これは個人個人が所有したから、勝手に使っていいという話ではないのです。これは自然なんですから、それをそういう利用形態と、今言った地価税などの政策的に利用されている税金というものをセットで考えて、つまり、負担を今増やすということではなくて、セットで考えて、固定資産税を拡充していくという方向を目指すべきではないかというのが、私の分権社会を目指す固定資産税の利用形態における第2番目の提案でございます。

7.都市計画税から土地増加税
 そして、最後でございますが、これはちょっと固定資産税と離れますけれども、現在、都市計画税という税金があって、これは都市計画区画整理事業とか、そういったところに使う税金になっておりますけれども、本来、もう一つ土地の税金として言いますと、土地増加税、土地の価格の値上がり、あるいは、開発利益の利益に対する税金というのが土地増加税というのがあるわけです。これは大正年間から、土地増加税というのは繰り返し、繰り返し提案されていたのですけれども、まだ、実現されておりません。これはドイツのフランクフルトで発明した税金で、フランクフルトでつくられた税金が最初に導入されたのは、多分、中国のドイツの植民地だった青島だったと思いますけれども、そこで導入されて、土地の値上がり益にかける税金であるというふうに、そういう税金が行われたわけでありますが、この都市計画税は、土地増加税につくり直すべきではないかと。これは開発利益、都市の開発利益、これはさまざまな都市のインフラによって、つくり上げられた利益によって、土地の値段というのは上がるわけですから、土地増加税をつくって、これでもって開発利益を吸収して、そして、そのインフラ整備に引き当てるという、それの充実をこれから21世紀に向かってつくり上げるべきではないかというふうに考えています。
 というのは、これから21世紀になって、高齢化社会になりますと、街なみ全部変えないといけないのです。今までの都市というのは、若い人々向けにつくられていたわけです。公共事業を今、くだらない公共事業はともかくとしても、21世紀に向かって、やらなければならない公共事業は沢山あります。病院とか、老人ホームとか含めれば、もちろん沢山ありますが、それを除外したとしても、街なみ全部変えないといけないわけです。横断歩道橋、これはとてもじゃありませんが、老人では無理ですので、国民の多くが高齢者になってくるわけですから、街なみ全部を老人が普通に生活できる、ノーマライゼーションができるような方向で、全部つくりかえていく必要がある。この財源は膨大に上ります。駅にまいりますと、エスカレーターというのは、日本の場合には、エスカレーターが1本しかない場合には、大体、上りのエスカレーターになっているわけですが、高齢化が進むと、あれは逆にしないとまずいのです。御存じのとおりに、昇るときは、筋肉をあまり使いません。エネルギーは使いますので、はあはあ言いますけれども、しかし、筋力は使いません。降りるときは、エネルギーは使いませんけれども、筋力は使います。しかし、老人になりますと、筋力は衰えますので、必ず階段を降りるときに事故を起こして引っ繰り返るのです。降りるときに、事故を起こしますと、私の同僚も何人も死んでおりますけれども、階段で頭を打って死ぬという事故が多発してきます。そうなってくると、昇りのエスカレーターをやっている意味というのは若者のためにエネルギーを節約しているだけですから、お年寄りのために筋力を節約するためには下りのエスカレーターに換えないといけないということになってくるわけです。ことほどさように、まち全体をもう一度見直してみると、かなりの改造が必要になってくる。そういう財源として、土地増加税というのはつくりべきではないかと。ここは都市計画税と共に、現在、もしも、国でかけている所得税がきちんと土地の譲渡益というのを行わないのであれば、別途、所得税に含まれている土地譲課税を地方税に移し変えて、そして、土地増加税に吸収するというのが1つの考え方として言えるのではないかというふうに思います。

8.分権型社会の構築のための固定資産税のあり方
 私の今日、申し上げたかったことは、かなり抽象的な話になってしまいますが、分権型社会というのは、それぞれの地域社会がそれぞれの地域社会の住民が、お互いに協力しあって、そして、その地域社会の環境、地域社会のお互いの協力による公共サービス、そういったものを供給していく社会、そのことによって、人々が安心して子供を生み、安心して年をとり、安心して病気になり、安心して働きながら不慮の事故に合っても大丈夫なような、そういう社会をつくっていくことが分権型社会の目的なんです。そのためのまちや、環境の保護や、今、言いましたまちの改造、環境の保護、それから、さまざまな公共サービス、この供給の財源として、もう一度固定資産税を新しくつくり直すということのためには、土地というのは、これは私たち地域の共同社会の共通の財産なんだという認識に立った上で、そうして、そういう立った上で、今、申しましたように、まず、第1に、そういう認識のもとに、土地の価格の変動に左右されないような課税のあり方を、つまり、安定的で普遍的な課税標準の設定の仕方を追及していくというのは、第1点の提案であります。それから、第2点の提案としては、地域社会が共同の管理している土地の利用計画と併せた課税形態にするというのが第2点。そして、第3番目には、まちをつくり替えるというような意味から言えば、土地の増加、土地の開発利益などにも税金をかけていく。そういう形でもって、地方の土地の課税、そして、固定資産税を位置づけなおすべきではないかということを、私の結論にさせていただきまして、時間でございますので、私の拙いお話を終わらせていただきます。どうもご清聴ありがとうございました。